さよなら、我らの太(ふと)っさん

桜紫会の象徴的存在だった中西 太さん(S27卒)が令和5年5月11日、心不全で都内の自宅で逝去されました。
享年90歳でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
以下は野球部OB会長の伊藤良春さんから寄せられたメッセージです。


昭和45年8月、新チームとなり東京の強豪社会人野球チームと合同練習のため上京した折、新橋のホテルで、初めて中西太先輩にお会いしました。憧れの先輩から声をかけられ感動したこと、バイキング形式の豪華な夕食をご馳走になったことなど、53年前の光景が今でも浮かんできます。

かつて野球部は、三木町のグランドまでバスで練習に通っていました。その初代のバスを寄付してくれたのが、中西太先輩です。また、アマチュアの練習では使えないような上等なボールを、米俵ほどもある大きな袋に、何袋も送っていただきました。その上、高松一高は中西太先輩の出身校ということから、全国に名が知れわたり、強豪校との練習試合も数多く経験することができました。このように、いつも私たちのことを気遣い温かい支援を差しのべてくれるので、皆が敬愛の気持ちを込め、先輩のことを太っさんと呼んでいます。

昭和20年7月の高松空襲で九死に一生を得た太っさんは、松島小学校を卒業して昭和21年4月に旧制の高松一中に入学しました。

それから3年間は中学生として現在の高松一高の校庭で学びました。
その間に学制改革があり、昭和24年から27年に卒業するまでの3年間は引き続き新制高松一高に在籍しました。つまり、桜町のあの校舎で6年間を過ごしたことになります。その頃は旧制中学の生徒も在籍していましたので、野球部では何歳も上の先輩に交じって練習しました。しかし、中学生であるために試合に出られず、3年間はボール拾いなど、練習の手伝いをしていたそうです。その下積みの3年間の苦労が、高校生になり開花しその後の野球人生を築きました。
ですから、太っさんは終生、彼の原点である高松一高を愛し続けてくださいました。

昭和27年に高松一高を卒業し、後に義父となる三原脩氏の率いる西鉄ライオンズに入団。その後の活躍は、この紙面に描き切れるものではありません。
「何苦楚(なにくそ)」、色紙にはこの言葉を好んで書かれました。何事も苦労が礎(すわえ・若い枝の意味)となる。この言葉は、三原脩氏から引き継いだものであり、野球界でも数多くの後輩に受け継がれているそうです。

太っさんの偉大さは、選手としての輝かしい実績とともに、プロ9球団で監督やコーチを務め、多くの選手や指導者を育てたことにあります。著書に「人を活かす 人を育てる」というものがありますが、まさに、太っさんの門下生が現在の野球界を支えていると思います。

高松一高の卒業生として、心よりご冥福を祈るとともに、太っさんのような素晴らしい先輩と巡り会えた幸せをかみしめています。

さようなら。

略歴:昭和24年春と夏の甲子園に出場、26年夏の甲子園に出場。
高松一高から西鉄ライオンズ入団。
新人王、トリプルスリー(打率3割、30本塁打、30盗塁)、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回、僅差で3冠王を4度逃がす。
8球団で監督・コーチを務めた名白楽。平成11年野球殿堂入り。

昭和47年卒 野球部 OB 会長 伊藤良春